内閣支持率低下の勢いがとまらないこの頃のこととて、二回目の事業仕分けは、保身のマスコミが盛り上がらなかったけれども、研究とか教育とかも、規制緩和構造改革は一体なんだったのかを問い直したい人が沢山いる今としては重要なテーマであることに違いない。


当時の旗振り役の一人だった加藤寛氏の文章(『教育改革論』)に以下のくだり。


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わが国の大学の研究水準について、全般的に否定的な評価をする見方には、企業等の研究の方が、施設の面でも、研究費の面でも、研究人材の面でも、大学よりもはるかに充実しており、今や大学は最先端の科学研究を担うものではないという議論がある。このような見方を推し進めると、大学は人材を供給してくれさえすればよいので、研究は研究機関に委譲してしまった方が効率的ではないかという議論になりかねない。

 しかしこれに対しては、企業等の研究は、合目的的な開発研究に偏らざるを得ないのであって、基礎研究、なかんずく純粋研究は、開発目的から自由な、また研究者が完全な自由を保障された大学でなければできないという議論も強力である。

 たしかに大学の教員は全国で10万人を超えるが、その中で過半数をはるかに超える人達は、教育者であるとしても研究者だとは言いがたいのであって研究業績も出していない。しかし、これらの人々も、たとえレフェリーのある学術専門誌に一度も論文を掲載したことがなくても、発明、発見或いは特許の取得が一件もなくても、あるいは科学研究費などを受けたことが全くなくても、自意識においては研究者である。10年間に活字になった文章は年賀状だけだったという話もある。
 
 彼らは建前上、自己の評価の場合も、先輩、同僚、後輩の評価の場合も、形式的には研究業績を基準にする。研究業績の形式的な生産に熱心なあまり、大学の紀要等には、論文の掲載に際して質的な評価を行わないものがあったりする。しかし、これらの人々に対して彼らは研究者でないと明言することは、わが国においてはタブーである。


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ちょっと身近なところでは、今春、トレードよろしく駒場に研究室を移されてしまった御仁がいらしたような気がする。劇場型の視線を集めないところで、現実の改革が行われている。