研究者の品格

総長ついでに
というわけではありませんが、今年の入学式の式辞が印象深いので、少し読み返してみたりしました。


 私は、大学院を法学政治学研究科で過ごしましたが、その時に研究していた中心的なテーマは、「自由と制度」というものでした。それは、ドイツ語の言葉で、「インスティテューショネレ・フライハイト」、つまり「制度的自由」という言葉に出会ったことがきっかけでした。自由と制度の組み合わせというのは、直感的に違和感のあるものです。自然法思想においては、個人の自由は、人間が生まれながらに持っているものであり、その意味では社会以前から存在しているものです。他方、制度は言うまでもなく、社会が出来てからの存在であるはずです。
 しかし、さきほどの言葉は、自由と制度を結びつけようとするのです。それがどのようにして可能なのか、私は大変困惑しました。それは、知的緊張を高めるものでした。そして、その解決は、「制度的自由」という概念が、法律の世界の中でも解釈論と哲学論の境界に、また、法律の世界と社会的現実の世界との境界に位置して組み立てられている、と気づくことによって、はじめてある程度の合点がいきました。そこまで合点するために、私は、法律学の勉強だけでなく、国家学、社会学、そして人間学や文化学、さらには神学などの勉強も、少しばかりすることになりました。そうした幅広い勉強ができたのは、何より、最初に「違和感」を持ったからに他なりません。
 ついでながら、この自由と制度の構造をつなぐ重要な鍵として、エラン・ヴィタル(生命の躍動)という概念があります。この言葉を、私は1920年代のフランスの公法学者の論文から学んで、当然にその学者の創作にかかる言葉だと思い込んでいました。
 ところが、ほんの数ヶ月前、ある社会学の分野の先生から著書を送っていただき、それをぱらぱらとめくっていると、このエラン・ヴィタルという言葉が目に入って飛び上がりました。その言葉は、さきほどの公法学者の発明ではなく、同時代のフランスの哲学者の言葉だったのです。そして、実は、このエラン・ヴィタルというのは、少し哲学をかじった人であれば、おそらくは皆さんの中にもいらっしゃると思いますが、ああそれはベルクソンの言葉だと、すぐ気づくほど有名なものです。その点では、この話は、30年前の私が、まだまだ勉強が足りなかった、未熟だったというだけのことです。しかし、同時に、勉強というものは一生続くものだという、ある意味では当たり前のことに、改めてちょっとした感動を覚えたのも事実です。


論文や著作や翻訳を世に出すのは、自分の研究は迷い道ながら今日やっとここまで来ました、でもまだまだこの先を目指すつもりですのでよろしくお願いしますという報告でもあるわけで、研究は常に途上にあります。それはお互い様であって、つまり、人様の研究を批判する場合には、それなりのマナーや謙虚さや敬譲があるのではないだろうか? そして同業者間だけでなく、それは、例えばキャンパスを共有する他棟の人間に対しても求められることと思う。


ピヨピヨの1年生たちの前で話された上記のくだりで、襟を正す思いがするのは私一人ではないだろうと思います。