これも新聞から プラスα

朝日新聞13面読書 苅部直教授「日本に息づく深い思考の系譜」

「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」(中江兆民)に疑義を提出する形で、哲学とは何かをさらりと論じている。

西洋哲学のような精緻な理論はたしかに乏しい。しかし、現実を超える存在へ迫る、深い思考の系譜は、独特の形で、この日本にも息づいているのではないか


結論は当然、「日本人の思考の歴史には、「哲学なし」と言い捨てるだけでは済まされない奥ゆきが、やはりあるのだろう」となっているけれど、古典読解の厳密さ、言葉の襞に慎重にわけいる手法、精密な考察と挙げられているものは、なぜ、「それなりに深く咀嚼できる」にもかかわらず日本人に欠けるのだろう?


 特にこの記事に惹かれたのは、おそらく昨日読んだP.ティリッヒ(現代プロテスタント神学)の文章の記憶がなせるわざだ。ティリッヒは、近代初期の古典的正統主義の業績のひとつは、あらゆる世紀のキリスト教思想との絶えざる討論の中にあり続けたこととしている。こちらから見ればひとくくりに西洋の哲学者なのだけれども、その中で、微妙なコンプレックスがあるらしい。

今世紀の教養のあるカトリック神学者たちが、教養のあるプロテスタント神学者たちよりすぐれているのは、一般に、諸君が英語を知っているように彼らがラテン語を知っていることに基づいていると私は感じている。・・・その言語学的論理学的区別の鋭さは、プロテスタント神学の中に瀰漫しているあいまいさの多くを克服する。この種の鋭さを持つ近代語は存在しない。・・・彼らは、大学の入学試験に合格するためにラテン語で論文を書かねばならなかった。彼らは、辞書無しで自由にラテン語を使わなければならなかった。こういう能力は、失われたけれども――それは、神学的思惟における鋭さの喪失を示す――・・・


とりあえず、本日のところは、日本語とラテン語の違いとしておいて、いずれまた、考えてみよう。という、「とりあえず、本日のところは」という習性が曲者なのだけど。これでは全く、天声人語だよな。