小沢氏起訴の件

たまには生臭いことも書いてみよということで、絶好のネタが天から降ってきたので、久しぶりに少しだけ。


小沢一郎にとってまことに不運だったのが、昨今の検察の威信がた落ちという事態である。ほんの1年かそこら前までは、検察が何か言おうものなら、鳩山由紀夫が「国策調査ではないか」などと言って、援護射撃もしてくれた。しかし、最近のあの一件やらこの一件やらのおかげで、「プロの検察が無罪と言っているのに、素人が起訴だなっておかしい」とマイクに訴える民主党議員自身が薄氷を踏む思いであろう。ついこの間、小沢氏支持で盛り上がっていた方々には当面、わが身の明日を憂いて眠れぬ日々が続くことであろう。


どぶ板選挙を売りにしていた小沢一郎が何を間違ったかを、何十年も前に予言している先生がおられるので、紹介しましょう。A氏が東大法学部在学中を振り返って唯一、心から尊敬してやまない先生なのですが、最近、たまたまC教授も取り上げておられた(特に反応する読者がおられると困るので、ここでは、B教授という言葉は用いないし、もちろん、C教授はB教授ではない)。

・・・現代日本語の作用は、多くの人びとに共通の秩序像ないし世間常識の一部である。それと同時に、「言葉は国の手形」ということわざがあるように、言葉はグループごとに多様であり、人々の育った場所やグループを表現し、位置づける。そのため、よくいわれることであるが、職業政治家の地元活動においては、一方では、中央政界における活動能力を示す、いわゆる共通語による、よそ行きの挨拶や演説が大切である。また、他方では、選挙区の有権者心理的一体感を維持強化するため、地元言葉による活動も大切である。
  こうした言葉を素材に、社会生活の要点を抽象、造形しているのが、人びとのもつ秩序像である。そこでは、人と人とのつながりのあるべき姿、形、あるいは、人間関係のネットワークのシステム像が表現されている。そして、その人の住む世界が異なるにつれて、どこから何が見えるか、光景が変化するから、秩序像は当然に多様である。例えば、職業政治家が共通にもつ秩序像ないし政界常識と多くの国民が共通に持つ秩序像との間に、権力感覚、金銭感覚、あるいは、是非善悪、正義不正の倫理基準などについて、ずれや落差があっても不思議ではない。
  しかし、民主政治の権力抗争では、戒厳令政治をとらない限り、職業政治家は、有権者の投票と国民の政治的支持を頼りにしなければならない。そのため、職業政治家の政治活動は、政界常識と世間常識の間のずれや落差をかくし、多くの国民が共通にもつ秩序像に同調しているかのように見せかける演技の面を持たざるをえない。そこから、政界政治の秘密を裏側に、世間常識に一致した体裁を表側に包装した、文明の政治が生まれる。


                                        京極 純一

京極先生がこれを書かれた当時、特に念頭においていたのは田中角栄と思われるが、いかがでしょう。