新・空白の15年

以前、ひとに薦められてそのまま積読になっていた栗原彬のエッセイ集を 部屋の整理がてら、隙間時間にぱらぱらめくっていたら、おやと思われる文章があったので、カットしつつ一部を写経しておく。タイトルは「この道は権力集中国家への道」。


 1993年の細川護煕内閣の成立は、自民党一党支配の終わりと、55年体制の揺らぎを示す象徴的な出来事だった。とりわけ政治改革法の成立をめぐる政治過程は、55年体制後の日本の政党政治と市民政治の行方に、一定の方向性と速度を与える重要な分岐点を形成するものといえる。
 政治改革法は、1994年1月28日深夜に行われた細川護煕首相と河野洋平自民党総裁のいわゆるトップ会談で合意を見たとき、事実上決定した。

合意とはいうものの、細川首相が、比例代表の選挙単位をブロック制にすることで譲り、政治家個人への企業・団体献金で譲り、政党助成の上限でも譲るなど、きわめて自民党案に近い形になった。非自民連立と自民との差異が見えなくなり、自らのアイデンティティを失うほどの譲歩の上に成立した政治改革法とは、一体何だったのか・・・どうでもよさそうに見える政治改革法のいくつかのポイントを綴り合せてゆくと、どうでもよくはない、もうひとつの重大なメッセージが聞こえてくる。それは、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への移行が日本政治の光景を塗り替えてしまう、その方向性に関わる・・・小政党や市民派を駆逐し、大政党に吸収して・・・また、政党が、候補者の選出、比例名簿搭載順序の決定、助成金の管理などを行うことによって、政党中央に権力を集中することになる・・・この方向は、新生党小沢一郎氏が『日本改造計画』で展開している「日本再生」のビジョンに沿っており、、国民や市民セクターを差し置いて、大政党幹部に権力を集中し、強力な指導力をもって政策決定の体制を「統一」して、総保守体制のもとに翼賛型の政治を展開し、民意の反映や民主的な討論や権力分散と言ったことよりも、効率的な意思決定を優先させる、権力集中型の国家への道を示している。

トップ会談の後で、細川首相は「自民党案に大幅に譲った」と語ったけれども、小選挙区制と比例代表制の定数配分については、むしろ小選挙区制に大きく傾く自民党案のほうが小沢氏の本来の主張に近かったのである・・・トップ会談は、二人だけで差しで行われたのではない。細川首相と河野総裁とのそれぞれの介添えとして、小沢一郎新生党代表幹事と森喜郎自民党幹事長が同席した。「細川―河野」という表の関係と、「小沢―森」という裏の関係とがつくる、いわゆるパラタクシス(並列的関係)の構図は、密室政治的な意思決定方式を象徴的に映し出している・・・実際、トップ会談の前に、水面下で小沢氏と森氏の談合が進められていたことが知られている・・・政治改革法の成立をめぐって、さまざまな思惑や意図が渦巻いたが、よかれあしかれ、明確な政治的意思を抜群の行動力をもって貫いたのは、ひとり小沢氏だけだった。小沢氏の国策は、確かに55年政治体制の行き詰まりから抜け出していく一つの方向ではある。しかし、政治改革法に盛り込まれたこの方向は、政治は主権者である国民のためにある、という基本認識を欠落させている。


以下、具体的な提言が続くのだけど、この文章が記されたのは1994年2月。森氏をその後15年君臨させ、今回も支えている人々は・・・・・・。