某UP7月号だったかの某教授の某連載の文中に、「利己主義と友情は両立しない」とか言うようなことが書かれていたと記憶する(今手元に無いので、あやふや)。
たまたま哲学者田島正樹氏のブログに、『走れメロス』の友情についての文章が掲載されていて、とても対照的だという第一印象を受けた。


以下、同文中における問題提起と友情の定義(?)。

 はたして、友情において、裏切りはそれほど致命的なものであろうか? 

自分が友人として選び、その心根や性癖についてもよくよく理解しているメロスであってみれば・・・(中略)友人の魅力に深く通暁しているために、しばしば嘘をつくとか、約束を平気で(ないしは心苦しく思いながら)たがえるという彼の性癖さえ、彼の魅力と密接不可分な個性として理解しているであろう。
 友人ならば、よかれ悪しかれ、彼がどのようなことをするのが真に彼らしい行動なのか、ということを十分理解しているはずである。それ故、彼の「裏切り」さえ、いかにも彼らしい行動として、ある程度予測しているはずである。友情にとって重要なのは、それが彼らしい行動であるかどうかであって、それが道徳的に善いかどうかとか、私にとって有利であるか不利であるかといったことではない。


これ↑が、一瞬、某教授に対抗しているような気がしてしまった箇所。特に公表する気も無く寝かせていた文章との事だったが、敢えてこの時期にupしたのは、なぜ? 勿論、「某友人に対する友情のため」という解もありうるけれど。

 太宰治や彼に共鳴している人々が理解していないのは、友情が、単に二人の個人的関係にとどまるものではないことである。たとえ二人だけの友情の場合であっても、友情は何か二人を越えた清涼な大気圏を広げる。つまり彼らは、その圏域に所属し、自らをその住民として自負する事によって、単に相互への信頼には還元されない信頼の共和国を生み出すのだ。彼らは自由人という特権によって、互いを承認しあうことによって、それ特有のアウラを身に帯びる。このことが、友情に特有な、あの高貴な無関心といったものを生み出すのだ。
 友人たちは、恋人とか家族とは違って、四六時中、互いに関心を向け合う事はない。むしろ自由に放置する事を好む。それはもともと、自由人の共和国という社交圏に親和的なのであり、となり近所に嫉妬深いアンテナを張り巡らす、厚かましくも甘ったるい関心とは無縁なものなのである。俗物や奴隷たちにはどうしても理解できないのが、この信頼しあう自由人たち相互の高貴な無関心である。
 友情の無関心に対して、家族は常に深い関心を払い続けなければならない。それはコミットメントとも言えるが、どこかで相手を信頼していない証拠でもある。親は子に向って「お前を信用しているぞ」と言わねばならないが、それは、本当は信用していないからである。
 家族は放置しておく事が出来ない。そんなことをすれば、家族は崩壊する。相手に期待することは大きいが、どこかで完全には信用していない。それ故、期待が満たされるためには、こちらの側でそれとなく誘導、補助、懇願、激励する必要があるのだ。家族は、そのような深い関心と細かい持続的な配慮によって、何とか維持されてゆくのであって、絶対的な信頼とか比類ない愛情などとは無関係である。


むー、「俗物や奴隷たち」と「家族」が限りなく近く等置されているような印象です。 恋人がどこかへ行ってしまったし。しかも、高貴な友人たちの中には、自分のテリトリーを死守するためにこそ、ひそかに「深い関心と細かい持続的な配慮」に心を砕いている人だっていて、失礼ながらもしかしたら田島氏だけが、そのようなケアのフリーライダーに過ぎないのかもしれない・・・。


ところで、二つ目と最後の段落、それぞれ主語を置き換えたらどうだろう?

 同僚たちは、恋人とか家族とは違って、四六時中、互いに関心を向け合う事はない。むしろ自由に放置する事を好む。それはもともと、自由人の共和国という教授会に親和的なのであり、となり近所に嫉妬深いアンテナを張り巡らす、厚かましくも甘ったるい関心とは無縁なものなのである。俗物や奴隷たちにはどうしても理解できないのが、この信頼しあう自由人たち相互の高貴な無関心である。

 同じ研究科の同僚は放置しておく事が出来ない。そんなことをすれば、研究科は崩壊する。相手に期待することは大きいが、どこかで完全には信用していない。それ故、期待が満たされるためには、こちらの側でそれとなく誘導、補助、懇願、激励する必要があるのだ。研究科は、そのような深い関心と細かい持続的な配慮によって、何とか維持されてゆくのであって、絶対的な信頼とか比類ない愛情などとは無関係である。


田島氏が現実に身を置かれているのは、どちらの研究科であろうか。